バラーレ・フラテッリ
バローロ=ネッビオーロではあっても、ネッビオーロ=バローロでは必ずしもない。そこを誤解している人がいる。ネッビオーロは想像以上に幅のある表現ができる、実は変幻自在な品種なのだ。ソフトでフルーティでオープンにもなれば、堅牢で厳格で内省的にもなる。オーストラリアやカリフォルニアやニュージーランドで造られるワインがネッビオーロに対する既成の特徴とは大きく異なる個性を備えていることを知れば、必ずやそう言いたくなる。いや、ピエモンテでさえそうだ。大昔はバローロとバルバレスコぐらいしか飲む機会がなかった日本でも、いまやありとあらゆるネッビオーロのワインが溢れており、もはやこの品種に対する一元的な認識が通用するわけもない。
ではバローロとはどういう味のワインなのか。21世紀に入ってから「古典への回帰」というスローガンが目立つのには理由がある。ヒースコートでもマールボロでもロエロでもないバローロらしいバローロとは何か、を再考しなければ、世界を覆いつくすあまたのネッビオーロのワインの中の単なるひとつのバリエーションとして埋没しまう。我々もまた、バローロでなければ得られない味わいとは何かを再認識していく必要がある。
Barale Fratelliはこう宣言する、「バローロの名声は、ランゲの生産者たちの幾世代にわたる刻苦の結果であり、それはネッビオーロと産地のテロワールの非妥協的な反映である。だからバローロは不屈なのだ。それは流行に踊らされることなく、丘ごとに異なる数千もの個性から成り立つ方言で自らを自由に語る」。なんと自信に溢れた表現だろうか。1870年というバローロの歴史の最初期に誕生し、バローロの名声を自らの手で作り上げてきた生産者だけのことはある。バローロの本質を理解したいなら、そのパイオニアのワインをまずは知るべきであろう。
多くの人は、名声を得て様式が確立したあとに生まれた非・伝統ワインからバローロに入門した。既に伝統・古典を理解していた人にはそれは目新しく刺激的であり、積極的に宣伝するに値するものだった。そしてなにより、その“ バローロらしからぬ”親しみやすいなめらかさとフルーティさは、バローロを飲み慣れない初心者に対して強力な訴求力をもって市場を拡大することとなった。だが鯖寿司も小肌の握り寿司も知らず、サーモンとブロッコリスプラウトとキヌアのカリフォルニアロールから寿司に入門したとしたらどうだろう。前者のほうが後者より必ずおいしいと言っているわけではないし、変化を否定するつもりもさらさらないが、前者を知らずして後者のみで寿司を語るのは間違いだ。
一言で言えば、Barale Fratelliのワインは伝統・古典の代表である。半世紀にわたってバローロに親しんでいた人に帰る場所に帰ったかのような安寧と充足を与える、聳え立つ巨石の壁の如きタンニンと、複雑な上にも複雑な熟成をまとった風味と、すべての感覚を呑みこんで広がる支配的なスケールと、一糸乱れぬ統制力をもって永劫に続く余韻。好き嫌いさえ超越した、誰をも最終的には納得させる存在感と崇高さ。バローロとは何かを知る上で、これほどふさわしい見本は少ない。
古典派らしく、彼らは品種も一般的なネッビオーロ・ランピアだけではなく高品質で名高いミケや上品なロゼ(それが遺伝子的に同種かどうかの議論はさておき)を畑に残している。栽培はテロワールの個性を十全に引き出すべく、オーガニックを採用。醸造は30日に及ぶ長期マセラシオン。そして3年以上にわたる大樽熟成。一部では19世紀的なダミジャーノ(ガラス大瓶)熟成も行う。つまり、熟成素材のポテンシャルを最大限に高めた上で、そのポテンシャルを完全に抽出し、そこで得られた膨大な情報量と力強さを熟成によって整え、ワインの味を完成させる、ということだ。
しかし彼らは古典派であっても守旧派ではない。大樽熟成といってもスラヴォニアオークや栗ではなく、フレンチオークを使うあたりもそうだ。最も注目すべき試みは自生酵母の研究である。土地由来の酵母ではなく市販されている一般的な酵母によって発酵すれば、その土地らしさは確実に失われ、品質は安定すれど工業的なシンプルな味になる。自生酵母によって発酵すれば、その数多ある酵母の中には品質的に問題がある種類が含まれ、それが昔よく見かけた臭いワイン、いやな癖のあるワインを結果してしまう。唯一の解決策は、彼らの畑の中の自生酵母の中からよい品質のものだけを選抜すること。彼らは分子生物学を駆使してその困難なプロジェクトを遂行し、Castlè 157、210、215 という3種類の酵母を得た。最新技術は否定すべきものではなく、自己目的にならない限りにおいて、すなわち伝統を正しく維持・強化するための手段として使用する限りにおいて、おおいに導入すべきものなのだ。その革新なくしてどうして150年ものあいだ存続し得ただろう。
最も重要な事柄を最後に言う。彼らの所有する畑の素晴らしさだ。バローロ村のみならず全バローロ中でも屈指のクリュ、Cannubiは、円形劇場型で北風を防ぎ、熱を溜める、表土の薄い東と南向き急斜面。フローラルな香り、精緻な質感、抜けがよい味わい、上品さの内奥に潜む残酷なまでに堅固なミネラル感。annubiの向いにあるCastelleroはより南西向きで斜度が緩く、しなやかでおおらかな包容力のある味わい。そしてモンフォルテ・ダルバ村最高の畑とみなされるBussiaの、堂々たる風格、逞しい骨格、余裕ある流速の遅さ、要素の明快なディフィニションがもたらす、惚れ惚れする精悍さ。これらのクリュのワインの、これらのクリュでしか得られない個性がかくも正確に描出されている様を経験すると、「古典」の意味内容とは表層的な様式ではなく、彼らが言うように、「丘ごとに異なる数千もの個性から成り立つ方言で自らを自由に語る」能力のことだとよく理解できる。